旅順を訪ねる

2016年10月2日

 父の青春時代の思い出が詰まった学生時代の街 旅順。
いったいどんな街でどんな学生時代を過ごしていたのだろう。

 大連に入ってからパソコンンp調子が良くない。「
とにかく遅い!立ち上がるとデスクトップの表示からアイコンの画像が消えている。
中国はGoogleが使えないことは大連の子会社に出向していた4男から聞いてはいたがアンドロイドのネクサス7はメールもチョームも使えないので使い物になりません。
中国に逆らうということは代償も高いということののでしょう。
パソコンは10月30日にウインドーズのアップグレードが要求されて開始したのですが途中でエラーがでたのが原因ではと思い設定を前に戻すことで何とか動くようになった(ただし時間がかかった)。
今回から旅日記はWordPressでウエーブ上で書き込む予定でしたがWiFiの回線が悪く早朝でも何度もかたまるので今日からはパソコンからアップロードに切り替えます。

 今日は日曜日ということを大連の駅前に来て思い出した。
とにかくすごい人込みなのです。
バスのチケット売り場は大行列をしている。
ここと思うチケット売り場で旅順行きのバスチケットを買おうとすると「メイヨ」ないとすげなく断れるし
父がこの混雑のバスには乗せられないと思い路線バスで行くのをあきらめ大連駅から列車で行こうと考えて駅に向かう。
駅で窓口が違うといわれた時点で父が歩く限界に近くなっていると思いタクシーで行くことにした。
観光会社のバス1日旅順めぐりが150元から200元(2500円から3000円)らしいのでタクシーで行くとしたらいくらぐらいか?
400〜500元(3000〜7500円)ぐらいだと思ってタクシーと交渉すると向こうの言い値は500元(7500円)交渉し450元(6750円)で観光地を見ながら父の母校(旅順師範学校)を訪ねることにした。
タクシーの運転手は中年男性で乗り降りする時も父の面倒をよく見てくれる。
父を前の席に座らせ郊外の出ても大連の街がすっかりと変わったと私にいう。
時々当時の事を思い出し私に説明してくれる。
渋滞にも合い初めに訪れたところが東鶏冠山北堡塁という日露戦争時代のロシアの要塞跡地、2人で60元(900円)ただしここはトイレ休憩もかねて訪ねた。
ここから父の母校の跡地も近いはず。
大連がホームポジションの運転手は旅順の細かい裏道はわからないらしくタクシー運転手に聞きまくりおおよその場所が分かったらしい。
父の話では母校は旅順博物館の近くだったらいいのでそこを目安に移動を開始。
旅順駅は昔のままだという。
港も軍港なので軍関係の船がたくさん係留している。
昔はここに日本の巡洋艦が係留していたと父がいう。

 母校の跡地は大連ローカル 丸田からメールをもらっていたのですぐにわかった。
今は廃墟となった旅順師範学校だった。
父は正門から入ったのは何度もないという。元はロシアのホテルだったので学校の裏が寄宿舎になっていたからだという。

 隣の旅順博物館を訪ね父がこの博物館には西域から探検家が持ち帰ったミイラが何体もあり子供のミイラもあるといっていたが現在は2体のミイラが展示されていた。
このミイラは保存状態が良く一見の価値ありですが写真撮影は禁止されている。

 203高地に行くことも予定していましたが父が歩く限界が近いと思い父の相談すると203高地は行かなくてよいというので帰ることにします。
203高地は駐車場から階段や登りがあるということも聞いていたのも中止の原因です。
運転手に大連のホテルまでまっすぐ帰るように伝えます。
タクシーのメーターは203高地を訪ねなかったので400元に満たなかったが親切に案内もしてくれ父の面倒もよく見て蔵トラブルもなかったので約束通り450元(6750円)払った。

 父の思い出詰まる青春の街 旅順 時代は違えども学生時代の旅順で父の生活をちょっとだけ垣間見た今日の日でした。

廃墟となった父の母校である旅順師範学校

80年前のこの建物は輝いていたのだろう

父と廃墟(旧旅順師範学校)

大連に帰って遅い昼飯はカキの煮物かな? これはおいしくいただきました
中国のビールはアルコール度が薄く水っぽいが食べ物を食べるにはとてもよく合うので父も普段は飲まないのに結構飲んでいる。

父がホテルで休憩中に散歩がてら中山広場 大連の特徴かな?古い建造物と新しい建造物のコントラストが美しい





広場で中国将棋かしら?皆さん熱中しています。


神業的な補修作業 足場は無し



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