父の初勤務は大連日本橋小学校

2010年10月3日

 80年前のことが走馬灯のように目の前に現れているらしい。
父の青春時代の大連は輝いていたらしい。
当時の満州の輝きが今も残っている大連

 父の級友や同僚は戦況が悪化してくる中で関東軍に現地で編入され多くが戦地に赴いたらしい。
父は大連で当時はやっていた結核に侵され軍の編入はまぬがれたらしい。
その結核が大連の鍼灸師のお灸により直ったといっている。
この鍼灸師は当時は有名な先生で「お灸は血の巡りをよくするだけではない。熱を与える刺激で免疫力を強めるのだ」
「あんたの結核はお灸で直る」といい毎日通った結果しだいに結核菌が消滅したらしい。
今もレントゲンに影としてその結核跡が残っている。
もし、健康でいたなら父は兵士として戦地に駆り出されて母との出会いも私の存在もどうなっていたか?
父の親友の同僚は辺地の学校勤務となり現地で軍に編入され中尉となり終戦にてピストル自殺をしたという。
終戦当時の若者の苦難と苦悩がどんなに激しかったかが思われる。
父はラッキーにも大連の日本橋小学校勤務が続いたのは剣道の先生と結核のおかげだったらしい。
父は旧制中学時代(長野)は剣道に明け暮れていたという。
日本橋小学校は当時満州では巨大産業となった満州鉄道の社員の子息がおもに通う学校だったらしい。
当時の満鉄(満州鉄道)の力は強く社員も満州では特別待遇だったらしい。
剣道は必修科目で父は剣道を教える先生として日本橋小学校に努めていたという。
終戦直後の連絡船に校長の鶴の一声「とるものもとりあえず大至急船に乗れ」は満鉄の情報網が影響していたのかもしれない。
その後の満州での日本人の置かれた立場はソ連軍の侵略防止の盾といってもよい状態で連絡船もたぶん父の乗った船が最後でその後は2年ほど連絡船は途絶え引き上げ船となりやっと帰国がかなったという。
その間、膨大な死者を出している。戦後処理の日政府の政策のまずさが原因かもしれない。

 昨日までパソコンがフリーズし回復に時間がかかり昨日の日記も時間の制約で思うようには書けていない。
読みにくく文足らずで文章になっていません。
申し訳ないと思っています。

 今朝の朝食はコンビニの中国ふう玉丼もどきと屋台で買った小さな肉入りおかきといったらいいかな
それに牛乳にヨーグルトです。
父はコップに葉緑素の粉末を2袋入れ牛乳を入れ かきまぜたのを毎朝飲むのが日課だ。
小食なので玉丼は2人で分け合い食べた。
中国の一品の量は多いので1人前を父と分け合い食堂でも食べている。

 昨日は父としてはかなりの距離を歩いているので朝の活動は9時過ぎてから
タクシーで今は大連市第七十一中学校(旧日本橋小学校)に移動します。
10分ぐらいで到着したかしら父の脳裏に当時勤めていた学校が浮かび上がってきたようだ。
タクシーを降りて学校を背景に写真を撮ってから私に当時のことを話し出す。
橋を渡ってとんがり帽子の屋根が見えるともう学校だ。
グランドはもっと大きかった
橋には川は流れていなかった
(今は鉄道の陸橋になっている)
この橋を何度もわたって街に出かけていたという。
中山広場が憩いの場所だったというのでタクシーで中山広場に
広場のまわりは植民地時代の建物が現在も多数あり高層ビルとのコントラストがおもしろい。
父のは懐かしい建物もあり私に説明してくれる。
80年前の話が今よみがえってくる不思議 人の記憶力というものは無限なのだろうか

父が星海という風光明媚なとこらがあるというのでタクシーで向かいます。
タクシーで35元(550円)は中国のタクシーは安いのでかなりの距離でした。
でも疲れが出ているようなのですぐに帰ることにしました。
ホテルに帰ったのは12時ごろ
食堂で食事を食べて今日の活動はおしまい
ホテルでゆっくりとくつろいでもらいます。

父の勤務していた旧 日本橋小学校


昔の思いでが残る学校のそば


とんがり帽子の目印だった建物は現存していた


目印の当時は日本橋 現在は陸橋


今日の昼食は茄子といんげんの炒め物 おいしい そしてビール(アルコール度数が低く水変わり)


おまけで星海公園へ
父の星海という風景明媚なところがあるというので急きょタクシーで



今日はこれでおしまい。

メニューへ  2016年10月4日に続く