大連 後書き

2016/10/26

 今から80年前に父は神戸の三ノ宮から門司経由で大連港まで太平丸で希望に燃えて来たはずだ。
当時の大連は戦勝の余韻の中で一旗揚げるべく満州へと多くの老若男女が競って集まってきたのだろう。
父の場合は北海道生まれではあるが長野の岩村田中学(旧制中学)から長野県選抜2名枠で旅順師範に入学したらしい。
旅順師範は当時北の守りの学徒動員にもすぐに対応できるように学科の半分は予科練に明け暮れていたという。
ソ連から分捕ったモーゼル銃の扱いに軍から派遣された大尉や中尉から指導を受けていたという。
正装の学生服と訓練服を支給され学費から寮費までもすべて国から支給されていたらしい。
これは後発の旅順工科大も同じだったらしい。
のちに北の守りに多くの学生が動員され開拓農民まで編入し壮絶な戦いに駆り出されている。
父の同僚も卒業後満州で先生となり多くの先生が軍に編入されソ連との戦いで命を落としている。
生き残った親友もピストル自殺をとげている。
父がもし、結核と診断されていなければ今の父がこの世にいたか?私たち家族がこの世にいたかはわからない。
運命のいたずらは父を戦地からいち早く脱出させたことだけは確かなようだ。
しかし、多くの同僚や若き学生や農民が戦死をとげ生き残った者はソ連に抑留され苦難の道を歩かされたことは事実である。
また、兵士とならなかった老人や女性や子供たちを中国に残したまま日本政府は引き上げ船も出さなかったことも事実である。
何人の罪なき女性や子供が苦しき思いを胸に抱いて亡くなっていったか仮に生き残っても事実を話せない人たちの悲しみと苦しみを思うと心が痛みます。

 父が旅順で朽ちかけた旧校舎を見ながら私に話しかける。
「旅順師範はソ連が高級ホテルとして使っていた。そのまま校舎として使っていたので白亜の殿堂といわれ見事なものだった」
「俺たち学生は寄宿舎が裏にあったので正門から校舎に入ることはめったになく裏側から校舎に入っていた」
「海がきれいに見えていた」(現在は建物だらけで海は見えない)
「学生といっても半分は軍事訓練で学校長よりも派遣されてきた大尉のほうが威張っていた」
「銃の照準にはその銃特有の癖がありどこにポイントを合わせるかが銃ごとにマークが付いていた」
「なぜか射撃の成績は良かった」
「工科大とよく剣道の試合をしていたが工科大は強かったな~」
98歳になっても80年前のことがよみがえってくる不思議を私は父の隣で聞いている。
なぜか自分の脳裏に父が初めて校長として赴任した北海道の北の開拓地の風景が浮かび上がっていた。
見渡す限りの平原にぽつんと立っていた火の見やぐら その時私は小学4年生だった。
開拓民は朝早くから畑を作るため大木の根っ子を時にはダイナマイトで爆破して農地を広げていた。
子供たちの栄養は学校に支給された脱脂粉乳のミルクで補っていた。
つらい時代なはずなのになぜか楽しい思い出だけが脳裏に浮かんでくる。
グランドを作るためにブルトーザーで隅に押しやられた大木の根っ子の隠れ家で友達と遊んだこと
先生や友達とイワナ釣りで遊んだこと
農耕馬に乗せてもらって得意になっていたこと
記憶というのは嫌なことを脳裏の深く押しやるのだろうか?
父は大連行きの前後に嫌な夢を見るといっていたが夢については私に話さなかった。
その夢もやっともう見なくなったらしい。

 大連の旅ではホテルというよりはアパートメントハウスのような感じの広く小さな台所もついた部屋だった。
このホテルは32階の高層ホテルで海外から派遣されてきている特殊労働者が多く宿泊していた。
私たち親子の部屋は16階だったが見晴らしはよく大連の高層ビルが窓からよく見えていてその風景が父には気に入ったようだった。
私がバックパッカーで利用するホテルから見ると高級ではあるがもう少しグレードを上げたほうが良かったかな~とは思ったが父が気に入ってくれて内心ほっとした。

 勤めていた小学校(日本橋小学校)については取り壊されて新たに中学校が作られていてその空間だけが全く新しくなっていた。
まわりには三角屋根の目印の建物がそのまま残っていたりはしたが日本橋も全く変わっていて師範学校に比べると感激度は低かったようだ。

 大連駅も旅順駅も当時の面影を残していて大連駅は上野駅をまねしたとか当時の満鉄(満州鉄道)の力は相当なものだと父の話からも想像はつく。
中国奥地から満鉄で集めた穀物や資源を大連港から日本に運ぶという重要な役目をはたしていたのだから満鉄の力量は相当なものだったのだろう。
父によるとアジア号という当時世界一速い蒸気機関車が豪華な車両を引っ張って満州を走っていたという。
私たち親子も高鉄(新幹線)で瀋陽(旧奉天)まで一等車に乗って往復してきました。
中国の国力を集大成した高鉄は日本が当時満鉄で走らせたアジア号となにか重なって私には感じられ似た者同士やな~と思ったのも事実です。
今の中国のエネルギーを感じることは汚れた空気でも実感できる。
大連や旅順は半島で海を挟んでいるにもかかわらず大連港から眺める大連の街は数キロも離れていないのにかすんでいる。
工場も多くかなり古い車両も時々黒煙を噴いて走っているのも見かけるが車の数は多い。
今から30年ぐらい前だと思うが中国のツアーが解禁されて西安の兵馬俑(初めては北京だった)をJTBのツアーで友人スーと参加したことがあった。
北京で天安門広場や王府井を膨大な自転車が音もなく走り抜ける人々を見て驚いたが現在は自転車が車に置き換わったのだから当然かもしれない。
しかし冬季間の暖房に使う石炭や石油の量もこれだけ人口が過密していると相当な量にのぼるだろう。
冬の空気の汚染は深刻なんだろう。

 私は中国人の友人は多いほうだと思う。
旅で知り合った友人には何度か中国を訪問していてずいぶんお世話になった。
藤沢で仕事をしていた時に上海の復旦大学の留学生数人と友達になった。
一番の希望が冬のスキーだったので私のワンボックスで宝台樹スキー場(水上)で埼玉の学校の先生グループと一緒に温泉に宿泊しスキーを教えたことがあった。
上海育ちの彼らはスキーが初めてでリフトに乗って滑って転んで大はしゃぎだったのだが帰ろうとしたところ私の車が故障して新幹線を使うことになったが新幹線も初めてだといって車内で盛り上がって楽しい思い出がある。
今回の旅でもホテルの従業員や食堂の人たちには何かと気を使ってもらって父も食べすぎるくらいよく食べていた。
特にタクシーの運転手には小さなトラブルはあったが父には乗り降りでも手を貸してくれて父は満足そうだった。
 私はバックパッカーでのありアジアを一人で巡っている。
老人の私は日本宿(日本人バックパッカーのたまり場)は早寝早起きタイプなので夜遅くまでにぎやかなのは合わないので泊まらないようにしている。
サイゴン(ホーチミン)ではヨーロッパ人バックパッカーのたまり場的なデタム通りに宿を取ったが白人社会にはなぜかなじめない。
チャイナタウンが自分には合っているのかな~
黄色人種の自分をチャイナタウンでは言葉の壁はあっても区別しないからね~
バンコックでもカオサンではなくチャイナタウンにいつも宿をとっている。
(日本人ツアーではバンコックのチャイナタウンは危険なところってツーアーガイドがいっているよと誰かがいっていたけれど)
白人グループが多いツアーに入ると肩身が狭いがアジアの人を見つけるとお互いにほっとする。
トルコの旅でも韓国の人が多かったが隣同士に座って旅をエンジョイできた。
日本人は人間関係を空気としてとらえがちだ。
単なる憶測で物事を判断する癖がある。
中国や韓国の人を嫌う傾向が強いが実は一番血のつながりの強い人たちあることは人間がアフリカで発生し文化がメソポタミアで開花し古代中国で花開き朝鮮半島や南ルートから東の端の日本に渡って来たのだから北のルートもありかも?
チェンマイやチェーソンの屋台で赤飯や豆腐や納豆の原型を見つけるたびに熱い思いがくるのです。

あ~大連に行ってきたばかりだというのに後書きを書いているとまたまた脳裏に安宿でまどろむ私が早く自由になりなさいよ!だって

ルアンババーン(ラオス)の風に吹かれて

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